10月のある日に「手白澤に行ってきたよ」と写真を見せてくれた女性は、
仕事でも人生でも、私の先輩である。
しゃきっと伸びた背中、小柄で軽快な体つき。
初雪の中、女夫淵から3時間ほど1人で歩いて登ったそうである。
「行っておいでよ、あの道は歩かなくちゃ!ほんとに静かでいい宿だった。
温泉もいいしね」

いい道なのは知っている。
その昔日光沢には歩いていった。

私は歩くのはとても好きだが、目的に向かって、というのがどうも…
山の頂上を目指して、とかいうのが一番苦手。
達成感を得ることが目的になってるってのが…
あんまり好きじゃないんだろうな〜

それにあの道は、素人がスニーカーでお散歩する道ではない。
携帯も通じない場所である。
生半可な考えで雪の山道を登ることは、多くの人に迷惑をかけることになりかねない。

タクシー、タクシー!!

女夫淵から一般車両乗り入れ禁止の林道だが、宿が契約しているタクシーのみ「鬼怒川温泉」駅から宿に乗り入れることができる。
早速タクシー会社に電話すると、宿まで1万5000円だという… 
往復3万円か… う〜ん…

「往復お願いしますので、ちょっとまけてくれません?」
「そうですね〜 では…」

交渉成立!
 


2006年11月30日(木)・12月1日(金)

2人泊 @1万3500円 2泊目は1000円引きで@1万2500円

栃木県・奥鬼怒 手白澤温泉ヒュッテ

http://www.teshirosawa.co.jp/

 


 

前日駅で予約した切符を受け取り買い物をしていると、お嬢2から電話。

「あのね〜明日までかかると思ったけど、仕事、今日で終わるの」
(え? このこ、何の電話してきたんだろ)
「で、私どうすればいい? もしもし?」

(ああっ… 忘れてた!)
 


 

「ええっと… そりゃよかったね〜〜」
仕事でダメかも…というお嬢に
「前日でもOKよ。駅からタクシー、ドア ツー ドア ! 行けそうだったら
お言い」と言っておいたのだ。
そしてすっかり忘れて…1人旅モードに。

あわてて切符を取り直す。
 


 

東武鉄道で行けばとても安いが、2人とも池袋の便がいいのでJRスペーシアで。

 


 

鬼怒川温泉駅前にワゴン車が待っていてくれる。
運転手さんが「テレビがありませんよ、週刊誌とか買わなくていいですか?」
と言ってくれるが、私たちには必要ない。
 

車で1時間、山がかなり深くなり風が冷たくなっている。

 


 

眼下に女夫淵の旅館。
後ろは青空、前は雪空。しかし雪はまったくないの。

運転手さんも「去年の今ごろ、この辺は雪のトンネルでしたがね」

思わず「これでにわかに雪がどーんと降って、雪見の露天になればな〜」
と言うと
お嬢「なーに言ってんですか、そんなに都合よくいきませんよ!」
 


 

…しかし、風花が舞ったりしているのだ。

「あ〜 雪、降ってくれないかな〜 切に望む!」
「望んで叶うもんじゃありませんから〜」と、冷たいお返事。
 

 

林道から手白澤温泉に登っていく私道はチェーンが張ってあり、運転手さんがチェーンを開けて車を乗り入れる。

結局風花も消えてしまった…

到着!

 

ここは本来ブナの林の遊歩道、もしくは林道を、2時間半かけて歩いてくるお宿なのだ。

送迎すれば連日満館のはずであるのに、宿はきっぱりと「いい道です。歩いてください」

だからタクシーで乗り付けるのは、少々気恥ずかしい。

セルフポートレート。

 

全館、温泉の熱を利用した床暖房。

足裏からじんわり気持ちいい。

部屋の上がりかまち。

 

ほのかに香る温泉の蛇口。そして山のおいしい、冷たい水の出る蛇口。

 

ウオームレットのトイレ。
トイレの床がいちだんと温かで、汗が出るくらいだった。


 

シンプルな15畳。
床の間部分はフラットな板張りで、100℃のお湯が出る電気ポットが。
食堂に置かれているブルックスのコーヒー、紅茶など部屋に持ってきて
自由に飲める。

ポット、92℃などという半端な温度でないことがすごく嬉しい。
おいしい水なので、これらの飲み物がいつも以上の味わいになる。
 

 

入り口方向。
棚にハンガーレール。下に金庫。

テレビなし。ラジオなし。エアコンなし。
電話なし。冷蔵庫なし。携帯不通。

そこにあるのはしみ入るような静けさ。
なんとも心やすらぐ。

 

壁に掛けてある電子時計のかすかな
音を止めてしまいたい衝動にかられる。

しかし唯一聞こえるこの音は、
やがて立ち去らねばならぬその時まで、まぎれもなくここにいることの喜びの証であろう。

 

「本日お二方だけですから、男湯も
ご自由にお入りください」

ラッキー!ラッキー!
   ちょーラッキー!!!

 

「夜、従業員が入ったりしますが、入り口にスリッパがなければいつでも」

と言われて2人でるんるん男湯へ〜〜


 

「なんですか、まるみさん!そんなセクシーな下着着ちゃって〜。
見せる人いないくせに〜」

「ほっといてください!猫に見せてます! 
あ〜 自分だってそんな可愛いレオパード柄のパンツはいちゃって〜! 
見せる猫さえいないくせに〜」

「ほっといてください!自己満足です!」

などと言いつつ…

あれ?! 桶が浮いてる… いいねいいね〜
 

露天は? 露天は? 露天は?

 

露天!露天!!

 

露天露天露天!!!

 

にゃわ〜〜ん!!

 

にゃわわ〜〜〜ん!!

 

手白澤!!

 

雪の積もった大割山。

 

 

廊下。

右手前から、一番、三番、五番、六番、七番、八番、と6部屋。

山の宿らしく、二番と四番はない。

左のドアは食堂。正面にお風呂。

 

女湯、脱衣所。

ぴかぴかの床。

 

内湯。

 

かけ流しの2本の上がり湯。
受けているのは… なんと木の臼。

たっぷりと、途切れることなく流れ続けている。

 

誰もいない夕暮れの女湯・露天。

入りた〜い! いま男湯に入ったばかりで入れな〜い!

 

お食事。

本日われら2人のみ。食堂で。

食前酒は、杏酒と梅酒の炭酸割り。

 

前菜 :
蕨のおひたし、独活の酢漬け、煮豆、
細竹、こごみの生姜あえ、
きのこの煮付け、山椒魚。

 

八汐鱒のサラダ。

シャキシャキとした冷たい玉ねぎの甘さと爽やかさが印象的。
鱒のとろみのある脂によく合って、新鮮なレタスもすごくおいしい。

 

ガーリックトースト。

 

熱々!を持ってきてくださった。
柔らかいフランスパン、
     カリッ フワ〜ッと。 

 

お嬢リンゴジュース、
      私グラスの白ワイン。

 

岩魚のムニエル 味噌ソース。

こんな岩魚のお料理も、とってもいいもんだ〜。


 

尾瀬周辺は山椒魚を食す。天ぷらにしたり。
桧枝岐などに行くと、頭としっぽをまとめて束にして売ってる。
かつては貴重な蛋白源だったのでしょう。

食べたことないけど…
 

 

牛フィレステーキ バルサミコソース。
お肉柔らかで味わい深い。そして付け合せの大根もほんわり優しく煮てある。

 

ひと口蕎麦、おいしいご飯。
いいお味の丸めた蕗味噌のせ。

お蕎麦はたっぷり5〜6口はあり、おなかいっぱいに。

 

デザートはすっきりした柚子シャー
ベット。

コーヒー。


 

お食事の間にお布団を敷いてくれる。

満ち足りたお食事、おなかいっぱいでお布団にごろりんの後、午後11時前に女湯に。

あられのような雪がパラパラと。
お嬢とおしゃべりすることしばし、仕事の話から始まり、最近周りにいい男がいない!
確かにね〜 
…汗臭くて何考えてるのか分からん若手や、ローンに追われるヨレた中年ばっかだね〜

内湯に戻って時計を眺めやると…
ええーっ? 午前2時!
 

 

 

目が覚めると… これはもしや…

 


 

雪よ!雪!

起きてきたお嬢に「ほら〜!見てご覧ごらん!」
「あ、ほんとだ〜」

「だからね、人間は心から望めば必ず叶うのよ! あなただってね、ほんとにいい男を見つけようと思って目を皿のようにして心から望めば必ず見つかるはずよ! だいたいね〜男なんてどうでもいいと思ってるから…」って後ろを振り返ったら…

いなかったわ…
 


 

敷地のはずれ、宿の飼い犬のクロがりりしく立って、道のかなたをじっと見つめている。
宿に向かって車や人が来たら、いつでもお迎えできるように。
 

 

山の朝食は7時半!
食堂で。

 

岩魚の甘露煮。
熱いお味噌汁。
新鮮な水菜とジャコのサラダ。

 

おひつの蓋を開けて思わず取り落としそうになった。

おひついっぱいの、湯気の立つたくさんのご飯。
山男たちの朝食。

朝食後はストーブのそばでタバコを。

 

コーヒーをいただきながら。

 

 

薪。

 

雪が積もったので散歩には行けないが、ちょっと玄関に出てみる。

クロがいる。

 

宿の周辺は、全館床暖房のせいか
かなり暖か。

 

クロはけして人に吠えない。

人が来ると駆け寄ってきて尻尾を振って挨拶してくれるが、馴れ馴れしくなく、
挨拶がすむとサッサと自分の興味のほうへ去っていく。
生まれの良さ、そして愛情をもって育てられたことがうかがえる。

 

猫と違う厚い皮の、耳の後ろを掻いてやると、気持ち良さそうに目をとじ体を預けてくるが、だからといって図に乗ってヨダレを垂らしながらのしかかってくるようなことはない。

クロはこの宿を具現化したような犬で
ある。
ペットは飼い主に似るのであろう。

 

早い朝食のあとは、しきっぱのお布団で
お嬢爆睡。

 

本日は私たち以外も宿泊客があり男湯に入れなくなるので、私は男湯へ。

しかしお掃除の最中で入れず。
30分後にのぞいてみるも、まだお掃除中で入れず。

女湯へ。

 

 

高い位置から落とされる内湯の湯口。


 

農家の納屋で眠っていた臼だろうか…

本来の仕事をまっとうし、今は真っ黒になってしっかりと上がり湯を受け止めている。
 

 

水の出るシャワー。
(誰が使うんだろ? ブルブル…)

内湯から、雄大な大割山の姿が美しい。

 

 

お湯はほどよい硫黄臭。
鼻につくほどではなく、さりとてかすかでもない。

透明な湯に、白い湯の華がたくさん舞う。
内湯はやや熱く、露天はかなりぬるめ。


 

このお風呂を、独り占めできる幸せ。

お湯のあたりは柔らかで刺激を感じず、いつまででも入っていられる。
昨夜3時間入っても肌荒れしなかった。
 


 

深い、厚いしじまの中に、湯の落ちる音が響く。

人間が奏でるどんな音楽よりも美しい…
 


 

鳥のさえずりさえ聞こえない清冽な空気の中で
からだや心に付いたかさぶたや澱のような汚れが、ひとつ、またひとつ、
こそげ落とされていくような気がした。
 


 

絶え間ない電車の轟音、突然きしむ車のタイヤ。
半分しか聞こえない話し声、若い店員のかん高く耳障りな勧誘の声…

排気ガス、埃、ヘアトニックや香水、ごま油にニンニク。
防虫剤に加齢臭…

まばたきを忘れて見つめるパソコンのモニター、携帯電話、見たくもないネオンサイン、そしてテレビ。

五感は絶えず過剰な刺激にさらされている。
 

衰弱した目や耳や鼻を、優しく癒してくれる自然だった。

 

 

1人だけで、いつまでも入っていたい
お風呂だった。

雲が、早く早く流れていき…


 

そして見上げれば群青の空。


この自然は誰のものか…

この山、この川、この空気、この温泉は誰のものか…
 


 

お嬢が私の年になったとき、いまと同じようにここに入ることができるか…

私の姪や甥たちが年老いたとき、湧きいずる温泉と、この深いしじまを味わうことができるか…
 


 

男湯を見にいくと、お掃除は済んでいたがお湯がまだ満ちていなかった。

湯口の真下に桶が置かれている。
 

 

お風呂に桶が浮いているのは、
お掃除が済んだサインだったのだ。

お掃除したての一番風呂。

 

願い叶って、雪景色を見ながら。

 


 

夜の玄関。

クロは別棟の自分の小屋に帰ったらしく、いなかった。
 


 

夜のフロント。

クロがいなかったので、なんとなく飼い猫のことを思い出した。

夜半仕事をしていると、膝の上にふいっと飛びのってくる。

クルッと丸く膝の上に収まった時の、そのみっちりとした重さ、温かさ。
艶やかな毛並みを撫でたときのひんやりとなめらかな手触り。

いつかくる別れの後も、その感触と重さ、その存在を肌で覚えていられるように
そっと抱きしめると、細く目を開けてこちらをじっと見つめる目つき。

そんなことを思い出して、ふと懐かしくなる。
 

 

飲み物類。
飲み物のお金は各自で入れておく。

こんなふうにおおらかで、姑息なところがまったくないのが気持ちよい。

 

タオルではなく、手ぬぐい。

画家の詳細は宿のHPで。

本日の夕食。 果実酒の炭酸割り。八汐鱒のカルパッチョ フランスパンのせ。

 

 

前菜 :
鹿刺し 玉ねぎ添え、独活の葉のお浸し、日光湯葉の味噌添え、ゼンマイの煮付け。

 

塩焼きのこうばしい岩魚 野菜添え。

 

伊達鳥の香草トマトソース。
熱々で、鶏肉にしっかりと滋味があった。

 

カボチャのポタージュ、ご飯。
デザートはヨーグルトに黄金色の
蜂蜜たっぷり。

朝食は食べないで、お弁当にしてもらいました。
ぎりぎりまで寝て、お風呂です。

コーヒーだけいただきます。
 

 

ストーブのそばで。

 

10時にフロントに行くと、タクシーの運転手さんがご主人とお茶してました〜。

ずっしりとしたお弁当&お茶のペットボトルを手渡されワゴン車に乗り込むと、
頭にタオルを巻いたご主人が、手を振って見送ってくれた。

温かな日差しに、雪はほとんど溶けてきた…

 

運転手さんが手白澤に向かう道にチェーンをかけ、
こうして私たちの素敵な2泊3日の旅は終わってしまった。
 

鬼怒川温泉駅付近はいいお天気。
 

今日は土曜日、乗る人がいるんでしょう、
ワゴン車は駅付近に止まったまま。
 

帰りは東武鉄道で。
お嬢「これが行きの電車ならいいのにね〜」
 

まったくね〜。
 

お弁当のおっきなお握り。ずっしりと重い。
佃煮、コブ、梅干、岩魚のスモークを付けてくれている。
 

「しっかり握ってあって重〜い!」

パクリッ!

山男たちのおいしい昼食。
 

山々がどんどん遠くなり、そして都会が近づいてくる…

 


 

お嬢と温泉に行くのは楽しい。
今回もとても楽しかった。

しかし… 帰りの電車に揺られながら…

私はいつかあの宿に、1人で泊まってみたいという思いが…


あの静けさ、あの空気、あのお湯。
つまりはあの宿を…
まるごと1人で独占してみたいという思いが…

心の中にふつふつとわき上がってくるのを抑えることができなかった。