自己紹介にも記しているが、田舎は会津。
前は会津盆地の田園風景、裏は越後山脈の山裾という立地。
貧農だからオヤジは町工場に勤務しながら農業をしていた。
ガンと2年ちょっと闘って52歳で逝ったが、ホントじっとしていない働き者でマメなオヤジだった。
しかし、ズンチャ(方言:田舎じゃ爺様をこう呼ぶ)は怠け者だったね。
元気な頃も農作業なんてのは、ほとんどしなかった。
一人息子として甘やかされたようで、バンチャ(方言:婆様のこと)がいるときは、バンチャと息子夫婦に任せっきりで、忙しくても囲炉裏に陣取って、1日中タバコ吸ってお茶飲んでた。
ズンチャの道楽は内孫の僕を可愛いがること。
そんなズンチャが秋になると俄然張り切る。
キノコ採りが好きなんだな。
マツタケ山を3つもやってた。
他の人がその山に入ってキノコを採ることができない、留山(とめやま、この字で良いのかわからん)だね。
朝早く弁当持って4キロほど山に入る。
木小屋と言う小さな小屋が建ててあり、1日山を観て歩きキノコを採っては木小屋に集めて、夕方大きな背負いカゴで持ち帰る。
土日に僕が行ったりすると、もううろたえるくらい喜ぶ。
そして、山を案内して良く出る場所とか、探し方を一所懸命教えるんだ。
僕は赤緑色盲(色弱)で、落ち葉に隠れていたり、保護色に近いマツタケが見分けにくいときてる。
からっきしの下手くそで、また採るということが好きじゃない。
白くて丸い笠をツンツンつっつくと煙を出すやつとか、真っ赤なのとか、猿の腰掛けみたいのとかは見つけて遊んでる。
ズンチャはガッカリしてただろう。
そのくせ採るのが好きなオヤジにはあんまり教えない。
オヤジはオヤジで、遺伝だろうが、これがキノコ採りの名人だった。
キノコに限らず、採る・捕るというのが好きで、うまかったよ。
キノコ(主にマツタケ)の豊作の時は、勤務が終わった夕方とか、農作業の合間に、ズンチャの山に入った。
マツタケが背負いカゴ1つで、広げると二畳分くらいになるんだ。
豊作の年があってね、ズンチャが山から帰ってオヤジの帰宅を待っている。
僕も含めて3人で薄暗くなった山へ入り、木小屋から昼間ズンチャが採って集めてあったマツタケを持ち帰ったこともあったよ。
それもマツタケだけ。
最初にズンチャが持ち帰った背負いカゴ1つと腰カゴ1つ分、それに追加で3人が持ち帰った背負いカゴ2つ分と腰カゴ(これ僕)1つ分。
土間に筵を敷いて広げた時の量は壮観。
毎日採りに行くから、小さいのはそのままにしておくんだ。
見事な大きさのものばかりがこの量だ。
いつも暗くなる頃、仲買人が来て、買っていく。
笠の広がったのとか、傷ものは自宅用になる。
それが結構な量になるんだな。
時々ご近所や親類にあげたりするが、飽きるほど喰わされた。
裂きも切りもせずに、そのまんま囲炉裏の熾き火に放り入れる。
焼けたら、灰を手ではたいて、指で裂いて、醤油つけて喰う。
ま、原住民の喰い方よ。
たまに煮付けたりして長持ちさせたかな。
みそ漬けなんてのもあったね。
そんなこんなで、僕は「なんだ、またマツタケか〜」というふうになった。
ズンチャが中風で倒れて、2年くらい寝たきりになってから、僕が高校に行く年、雪解けの3月に逝った。
当然、倒れてからはマツタケ山もできなくなった。
オヤジは兼業農家で忙しいから山はやれない。
時々半日くらい山に入っては腰カゴ1つ分くらいは採ってきた。
人にあげたり、自家用にした。
上京して一人暮らしをしている僕に、秋になると庭の柿とマツタケが送られてきた。
柿は喜ぶが、マツタケは「要らね〜」なんて言うもんだから4〜5年で来なくなった。
お世辞でも「うまかったよ」と言ってあげれば、オヤジもうれしかっただろうにね。
そんな僕も40歳頃から、マツタケがうまいと思うようになった。
高くて、買っては食べられないからかな?
でも、食感はなんともたまらないね。
茎の縦の繊維を横に噛むときの、あの食感。
と、いうわけで、この騒ぎとページになった。